創作の中で“街”を描くために必要なものは――

 それってまぁ街の描写のリアリティとか描きこみとかも重要なことになるんだけれども、一番大切なのはその街に住んでる“主婦”を描くことじゃないかなぁ、とちょっと思いついたので。

 庵野秀明という作家は手順というのを見せるのに腐心している人で、それは例えば彼の有名な、超綿密なアニメートも膨大な「原因」「結果」の演算(そしてそれらは起承転結を生み、手順となる)と因数分解できるのでないかと見えちゃうわけですよ。
 そしてその「手順」という作家性が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」における主人公が住む都市、第三新東京市の描写において露骨に表れていて。そこでは人や物が流れているのに、肝心の「どこに行くのか」は漠然としてはっきりとしない。モノレールのカットや踏切を歩いていく大量の3Dモブのカットも、自分にとっては「便宜上のここ」から「便宜上のどこか」に向かうまでの手順を見せられているようにしか思えない。行き先が分からないので、「手順」という側面を強く意識させられちゃうのですな。
 で、第三新東京市の住人って、みんな「便宜上のここ」から「便宜上のどこか」へ歩いていってる感じで、あんまりその都市に住んでいるという印象をもてない。住居が描かれるレイにしろミサトにしろ、レイのマンションはありえないくらい殺風景だし、ミサトは独り者で生活が破綻していて都市に根を降ろしているという印象をもてない。
 なんでまぁ、その都市と四六時中顔をつき合わせている人として、登場人物に主婦が必要ではないかと思い至った訳ですよ。そんだけです。