ボーイミーツモンスタージャンルにおいて描かれる関係性の問題

っていうのは
・使命としての役割(物事を良き方向に導く為に結ばれた主従関係とか 『選ばれし運命の子としてパートナーデジモンと世界をうんたら』)
・近しい間柄としての情交(きみとぼくは友達さ!とかね)
という二つの綱引きから生まれる訳でして、それにどう折り合いをつけるのかとゆーのがドラマの完結点になるのが普通だと思うんですが。
ただまぁ、なんとなくまぁ、「使命としての役割」が偏重になりすぎて、「近しい間柄としての情交」は付属物というか、「泣かせ」用にちょろっと出す程度に留まってるという場合がまぁ、多いんじゃないかなぁ、と。

で、そういう偏重が「モンスターに戦わせて主人公は何もしない」とゆー批判を生むという問題もありそうで、そういうのって上手いこと折り合いをつけることができたら跳ね返せる単純な批判だと思うのですが、どんなもんなんでしょうね。

創作の中で“街”を描くために必要なものは――

 それってまぁ街の描写のリアリティとか描きこみとかも重要なことになるんだけれども、一番大切なのはその街に住んでる“主婦”を描くことじゃないかなぁ、とちょっと思いついたので。

 庵野秀明という作家は手順というのを見せるのに腐心している人で、それは例えば彼の有名な、超綿密なアニメートも膨大な「原因」「結果」の演算(そしてそれらは起承転結を生み、手順となる)と因数分解できるのでないかと見えちゃうわけですよ。
 そしてその「手順」という作家性が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」における主人公が住む都市、第三新東京市の描写において露骨に表れていて。そこでは人や物が流れているのに、肝心の「どこに行くのか」は漠然としてはっきりとしない。モノレールのカットや踏切を歩いていく大量の3Dモブのカットも、自分にとっては「便宜上のここ」から「便宜上のどこか」に向かうまでの手順を見せられているようにしか思えない。行き先が分からないので、「手順」という側面を強く意識させられちゃうのですな。
 で、第三新東京市の住人って、みんな「便宜上のここ」から「便宜上のどこか」へ歩いていってる感じで、あんまりその都市に住んでいるという印象をもてない。住居が描かれるレイにしろミサトにしろ、レイのマンションはありえないくらい殺風景だし、ミサトは独り者で生活が破綻していて都市に根を降ろしているという印象をもてない。
 なんでまぁ、その都市と四六時中顔をつき合わせている人として、登場人物に主婦が必要ではないかと思い至った訳ですよ。そんだけです。

アニメ最終回における「人間はそこまで愚かじゃない!」に至るコンボ

についてなんですが。具体的に言うと「破壊と殺戮を繰り返す人間に絶望した!アイアム滅ぼす!」→「人間はそこまで愚かじゃない!」っていうやつなんですが。
アレってある種、日本に住む人間だからこそ考えられるコンボじゃないかなーと、こういう展開をアニメの中で見るたびに思っちまうわけですよ。
このままだと例示がぼんやりしすぎてるので、同様の構造を持つやり取りを既存のアニメから引用してみましょう。ということで『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』より以下のやり取り。

シャア「世界は、人間のエゴ全部は飲み込めやしない」
アムロ「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる」
シャア「…ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ」

この中におけるシャアの思想っていうのは、エリートが社会を先導していかなければならんという理屈なんですが、それって例えば歴史における少数の宗主国と膨大な植民地っていう構図にそのまま移動できちゃわないかなーと。
で、現在世界の中にはそういった構図がなくなり、その代わり先進国と後進国という格差問題が発生しているわけで、そこにおいて生まれる問題って植民地時代の「大国同士のイデオロギーの対立による戦争」や「植民地内における民族蜂起とその鎮圧」ではなく「後進国内の貧困問題によるテロリストの蜂起とゲリラ戦」がメインであろう、と。
要は、「食うに困って人殺ししました」に対して「そうだよね、仕方ないね(´・ω・`)、でも殺す(´・ω・`)」的な理不尽を抱えざるおえないのが現代世界の主要問題であり、「破壊と殺戮を繰り返す人間に絶望した!アイアム滅ぼす!」っつー問題提起は「それ人間牧場という形で植民地がやろうとしたけどできなかったんだよ」と歴史が解決済みなので、古すぎる問題だよなーと感じちゃう訳ですよ。
んで、格差が他の国と比べてあまりない日本で平和に暮らしてきたからこそ、その平坦さに嫌気がさしてすぐ人間に絶望しちゃうんじゃないのかなーと思ったりしたんですが、まぁ妄想なので思考のドツボに嵌らないようにここで一旦打ち切りうちきり。