http://www26.atwiki.jp/nnm99/pages/14.html#A

タイトルに記載したURLで取り上げられていたトラブル事例を読んで心に浮かんだもやもやを、吐き出す場所がないのでここにつらつらと。

この問題について、自分は完全に部外者でこういった企画に参加したことがないし参加しようと思ったこともないんで義憤みたいな感慨は沸かないのですが。ここで取り上げられている人とハタから見れば同じようなこと(いわゆるオリジナルキャラを絡ませた、独自色の強い二次創作)をしてる人間として、「常識的に考えるとそういう行為が、ファン空間における平和なコミュニティを求める大多数の人から嫌われやすいということは簡単に分かるハズなのに、なんで無理やり交流持とうとするのかなー」と思ってしまった訳でして。同人界隈における二次創作というもののイメージが「ファン活動」というものに縛られている限り、「何描いても自由でオッケー」な訳ないんですよ。

というかそもそもこれだけ無邪気に自分の二次創作作品で交流できると思えることが自分にとっては謎なんですよね。創作っていうのは葛藤じゃないのかと。自己顕示欲としての創作と、そうではないアイディンティティの確認としての創作と、他者に対しての問題提起としての創作との間で悩み続けて自分に対して問い続ける永遠の葛藤じゃないのかと。そこに他人が介入する余地はどこにあるのだろうか、と。

 表現でも創作でも、まあ言葉はなんでもいいんだけど「なにごとか自分で作って、発表する」という行為の原動力、原風景のようなものは、俺は「自分の声がだれにも届かない」という絶望のようなもの(絶望そのものとはしない)だと思っている。なぜなら、声がだれかに届くなら、人はわざわざ「無からなにかを作る」なんて荷厄介極まりない行為に手を出す必要はないからだ。んで、原風景がそういうものである以上、創作なんてものの根底にあるのは、必ずしもだれかに誇れるようなものではない。むしろ表現する人は、その表現を通じて誇るに足るなにものかに必死で手を伸ばし、すがりつこうとするような存在だ。

 その前提において「表現しないと死んじゃう」っていうのは、その人の抱えてる課題や才質がよほど巨大であるかる、あるいはよほど声がだれにも届かなかった場合しかない。

 そして、ほとんどの人はそうではない。ちょっとしたコンプレックス、僻み、恨み、憧れ、そうしたものを抱えて、わずかながらも表現することを通じてそれを癒そうとする。

 ここに与えられた「キモい」という言葉がなにを意味するか。

 その言葉は、溶けたマーガリンに刺さるバターナイフだ。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20091129/1259470692


自分はそういうバターナイフが怖いから色々なものから逃げ続けている。そして自分の作っているものがマーガリンでありつつ、時としてバターナイフになるものだとも思っている。むき出しのエゴというのは怖いもののはず。何故ならそれは欲望の固まりだから。だからこそ人は協調性を求め、ひとびとのエゴを上手く隠蔽したがる。さっきのURLで取り上げられている人は、作品というものがバターナイフに変貌するものでもあるということに、気づいているのだろうか。

水俣病を生涯かけて撮り続けた土本は、「撮る」ことの暴力性をしきりに口にしていた。前にも書いたけれど、民家の前でたまたま見かけた水俣病の子供を撮っていた土本は、家の中から血相を変えて現れた親に罵声を浴びせられ、「彼ら被害者を更に加害しながら、自分はいったい何を撮っているのだろう」と激しく葛藤した。当時のスタッフに聞いた話だが、怒鳴られた土本は、キャメラの後ろで四つん這いになってしまったという。まるで路上に嘔吐しているかのような異様な光景だ。
まさしく土本はこのとき、嘔吐を必死に押し戻していたのだろうと僕は想像する。過剰な優しさは、ドキュメンタリーを撮る際には、自らを蝕む猛毒となる。体の奥底から沸き上がる拒絶の衝動に、土本は全身全霊を使って耐えながら、その後も撮影を続けたのだろう。
自らの深い「業」に嘔吐しながら、土本は水俣病の患者を撮りつづけた。国家や大企業の犠牲となった人たちを、被写体として不特定多数の目に晒しつづけた。半端な覚悟ではない。まして映画はテレビのように、一過性では終わらない。上映のたびに制作者は、新たな加害者として更新される。生涯を通じて加害者でありつづける。

「ドキュメンタリーは嘘をつく」 森 達也

アニメ「ライブオン CARDLIVER翔」について

この一つ前の日記でも書いたとおり、自分がこのアニメを(途中見てない回をはさみつつも)最後まで追いかけた理由として、「このアニメは「その玩具を使って繋がる友達の輪」を描いたアニメだ」と思いながら見ていたというのがありまして。玩具を使って繰り広げられるアニメが、どうしても破天荒な方向にいきがちで閉塞感を持っていたところを「ああ、こういう方向もあったのか」と気付かせてくれたからなのです。
このアニメにおいて、主人公は幾度か勝利の機会を得るものの、カードバトルで負けた回数がかなり多く、主人公たち3人組チームの足引っ張り役として君臨しています。最終的に主人公たち3人組は、大きな大会に優勝するという栄冠を手に入れるのですが、最後まで「三人組の中で強いのは脇キャラ2人」という構図は変わらないため、視聴者には主人公が「強いTCGプレイヤーとなって成長した」とあまり感じることはできないでしょう。しかしそのTCGプレイヤーとしての腕とは関係なく、TCGを通じて主人公は友達や理解者を増やしていき、劇中でもカードバトルのシーン以外に、カードバトルを通じて得た友人たちとの交流シーンがかなりの時間を割いて描かれるのです。
例えば第40話「スズメとライブオン」において、こういったストーリーが展開されます。

ライブオンステーションにやってきた大空3兄妹。そこで翔やアイたちと出会う。談笑を始めるカモメやツバメ。しかしスズメはその輪の中に入れない。すると係のお姉さんがやってきて、低学年の子供たちが集まる一角へと案内される。スズメはそこでミルと再会を果たす。

あにてれ:ライブオン CARDLIVER翔

ライブオンステーションというのは、TCGによる対戦を行うことが出来る場なのですが、このエピソードでは意図的なのか、非常に没個性的な、ゲーム屋さんの脇にあるような机とイスが並べられた会場として描かれています*1。そこに、以前のエピソードで主人公3人組と対戦した「大空3兄妹」がやって来るのですが、兄妹のうち末妹である内気な大空スズメだけがその場に混ざりたいのに馴染むことができずに取り残されてしまいます。そこに店員さんと思しきお姉さんがやって来て、TCGの対戦相手を代わりに探してくれるのですが、そこで対戦相手として再び出会ったのが、兄に影響されてTCGをはじめた主人公の妹――天尾ミルと、ミルの友人のマユだったというのが、このエピソードで語られる前半のストーリーとなります。
スズメはTCGにおいてかなりの腕前を持っている反面、あるコンプレックスを抱えています。

マユ「ミルちゃん、負けちゃったね……」
ミル「あはは……」
スズメ「わたし……またやっちゃった……ライブオンはじまると何時もこうなっちゃう」

第40話「スズメとライブオン」 より

TCGによる対戦をプレイ中のスズメの真剣(を通り越して怒気を放っている)表情から、おそらく彼女は誰に対しても本気を出してしまう自分を恥じているのでしょう。もっと踏み込んで深読みしてしまえば、相手のレベルに合わせて手を抜かないと、とも思っているのかもしれません。そしてそのことが、スズメを一人ぼっちにさせてきた、ということなのでしょうか。そんなスズメに対し、ミルはこう会話を続けます。

ミル「ほんと強いね!スズメちゃん、すごーい!」
スズメ「えっ……?」
ミル「すごい、すごーい!ねぇ、どうしてそんなに強いの?」
スズメ「え……あの……お兄ちゃんたちとずっとライブオンしてたから」
スズメ「ほんとすごいよね!うちのお兄ちゃんとは、大違いだね!ねっ!」

第40話「スズメとライブオン」 より

マユ「あっ、スズメちゃん笑った!」
ミル「そうだ!ねぇスズメちゃん、今度わたしのうちでやらない?」
スズメ「いいの?」
ミル「もちろん!お母さんもごちそう作ってくれるよ、ね!」
スズメ「……うん!」

第40話「スズメとライブオン」 より

ミルはTCGをひとつの遊びとして楽しんでいるものの、兄のように対戦で勝利を目指そうというモチベーションはあまりなく、プレイすることそれ自体をTCGへのモチベーションとしているキャラクターです。そんなミルの性格により、スズメは友達を持つことができた――逆に考えると、勝ち負けにこだわらないことが、友達を作るきっかけになるといういことが、このエピソードで語られているのかもしれません。
この話において、スズメとミルの対戦内容は描かれず、終始総集編として、これまでのエピソードから抜粋した回想シーンが流れます。もちろん、そこから「総集編で1話エピソードを作るため、つなぎとして作られたエピソードだ」と、アニメ製作面を重視してこのエピソードを判断することもできるでしょう。しかし自分は、こういったTCGによる対戦周辺の挿話が愛しく、また玩具を使ってひとつの目標に一直線といったワンパターンに陥らないための可能性として、「ライブオン CARDLIVER翔」のエピソード群を賞賛していきたいと考えているのです。
人にはどうしても相性があります。足が速いひとと遅いひとが居るように、TCGにも恐らく得手不得手が存在するでしょう。しかしそういうものと関係なく、TCGというのはたくさん友達ができて楽しいものなのだと、TCGから生まれるコミュニティの魅力を戯画して描いたアニメとして、ひとつのお手本に仕上がったと言えるのではないかということが、このアニメから自分が感じた一番の魅力でした。

*1:ちなみに他の話においてはこの限りではありません。同じライブオンステーションでもテニスコートのような場所で、モンスターを文字通り『召還』させて戦うエピソードもあります

ライブオンというアニメが終わって

自分の考えを整理するためにちゃんと感想を書かないとナーと思ってダラダラと今に至っている訳なのですが。でもまぁ相変わらず書けなくて、しかしこういう記事を今さっきがた読んだのでちょいと。

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20091015

『バシン』に話を戻せば、家庭から消えた父が、仮面をつけて子供の前に敵として現われるところなんかが、何かしら現代の問題を提示しているような気がするのだ。つまり、子供の前に子供の敵として立ちはだかるためには父は子供の幻想の世界に入ってこなければならない、ということである。ここが現代の困難ではないのか、という気がするのだ。

『バシン』において目指されていたのは、対立関係の存在しない、ある種、居心地のいい緩い共同体である。


自分は『ライブオン』を見てて『バシン』は見てないので、そうかー『バシン』も主人公の家庭から父親の影は居ないのかー(ライブオンもあたかも居なかったことにされてるかのように、主人公の家には父親が居ない)と思いつつ、やはり今玩具アニメで製作者側が描きたいことって「その玩具を使って繋がる友達の輪」なのねと、ライブオンまとめ日記で書きたかったことを改めて思い起こしたり。活動している同人ジャンルの都合上、『ボーイミーツモンスター』玩具アニメの基点を『魔神英雄伝ワタル』に起きたがる自分としては、『ワタル』でプラモデルという形でモンスターの偶像を提供していた玩具会社は、『デジモン』に至り携帯電子機器を販売することでモンスターとのコミュニケーションを提供するに転じ、またその玩具に添えられた対人バトル機能に特化したTCGを玩具販促計画の主流の一つにおくことで、モンスターを後景化させてバトルの向こう側――友達とのコミュニケーションの楽しさに着目させる戦略をとった、みたいな仮想戦記を妄想したりとかなんとか。

この仮想戦記に基づくと、ライブオンが1年間描いてきたことってまさに「その玩具を使って繋がる友達の輪」を軸とした主人公天尾翔のサクセスストーリー(最後は主人公の家で開かれた祝勝会にそれまでTCGで戦ってきた人がわんさか集まってくる)なんだけど、明らかに「打ち切られた」お話だからなーあんまりそこに拘泥して文章書くのもよくないなーとうじうじして、さらに文章を書く機会はどこかに行ってしまうのでした。

自分が「ぼくらのウォーゲーム!」に思い入れることができないのは

最後にネット世界に入っていっちゃうからで。友情勝利の方程式は古典的であり王道であるけれど、ボーイミーツモンスターでそれやると昨日の日記で示したとおりある意味極端な方向に振れちゃいやすい。
そういう意味で、最後ネット世界に入るのは、細田守の構想にはなくて、東映の社長によるアドバイスというのが非常に分かりやすい。ドライな今を描きたいであろう細田に対し、東映の社長は「東映アニメフェアの一編」であることを要求した。東映を出た後、細田はネット世界に入らないし進化もただオシャレするだけで無意味で、人も一人死ぬ映画としてのサマーウォーズを作った。こんなんでどうでしょう?

またまぁ

つまり「モンスターに戦わせて主人公は何もしない」とゆー批判を自分は嫌いなんですが、なんでかというとそれは見方を作ると現代における戦争の構図のメタファになり得るからなんですよ。本土からかけ離れた戦場で、志願制により徴収された兵士が戦い、我々が後方支援する。そういう構造において世界を含めどう関係性を作るかということに対して答えを模索することこそが面白く、「モンスターに戦わせて主人公は何もしない。だから一緒に戦え」は解決策にはなり辛いですよね、ってことです。

それでまぁ

「使命としての役割」を偏重しすぎて、「近しい間柄としての情交」は付属物になると、「結ばれる運命だった」「俺とお前は強い絆が云々」的に陥りがちでいかんよね、というのが僕の立場であります。なので、「使命としての役割」を否定し「近しい間柄としての情交」を思いっきり重んじた「レジェンズ」というアニメが僕は好きです。